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  人生の目標と行動を良く考えて生きる。感情は、大切だが、あくまで自由にさせておく。そして自らの行動には、責任を持ち言い訳はしない。「行動」 と 「感情」 と 「意思=人生の目的意識」 の 3点のバランスの大切さこういう考え方=生き方は、今、大事なんじゃないでしょうか。そして、大いに共感したのが、自分自身を客観視して、常に社会の一員であることを意識するという「意識の広がり」の大切さを説いていることです。
私は、生きていく姿勢として、意識の底の方で世界との繋がりを常に、感じる必要が、あるように思っていました。
不動産の特質として、社会性を持っているのですから、不動産業に携わる者は、すべてこの社会との繋がりを忘れてはならないのではと、常々感じていましたところ、この本を手にしまして、我が意を得たりと、強い共感を持った次第です。 この社会との繋がりを常に感じて生活を送ると、心と行動のバランスがとても取りやすい様に思います。

この意識の広がりのある人と無い人の違いを、私は、最近良く感じていたことで、この意識の広がりがあれば、本当の意味でのやさしさとか、思いやりが持てるように思います。人生の目標と行動を良く考えて生きる。感情は、大切だが、あくまで自由にさせておく。そして自らの行動には、責任を持ち言い分けはしない。こういう考え方=生き方は、大事なんじゃないでしょうか。そして、大いに共感したのが、自分自身を客観視して、常に社会の一員であることを意識するという「意識の広がり」の大切さを説いていることです。

そして、この意識の広がりの無い方は、とてもさみしく見えます。

                  平成10年8月9日 夏 トマトホーム 西岡儀和

お勧めします。この本 

 

人生は、行動を待っている。

著者 ディヴィッド・K・レイノルズ KKベストセラーズ

から以下抜粋    \1、400.-

「まず、自分に自信を持ちなさい」の大きな間違い

 今まさに、より良い人生を送るために実際に役立つ、賢い方法が必要とされています。それには、子供だましの魔法ではなく、禁欲的で無味乾燥な学問でもない方法を身につける必要があります。目的のはっきりしない技術を持つ専門家に高額な治療費を出して依存するのではなく、自分自身の二本の足でしっかりと立ち、賢く生きる方法があります。真の大人になるため、実りのある人生にするためには時間と努力をかけなくてはなりません。より良い生き方は、魔法の杖を振ると妖精の羽にのって飛んでくるようにはいきません。読者の皆さんはそんなことを百もご承知でしょう。満足な人生を送るには努力と忍耐しかないと気づき始めていることでしょう。この本には、人生全般にわたる事柄や問題に対処する現実的なアドバイスと知識が書かれています。心身の病気に関する問題は、医者や精神科の専門家に診てもらうことを勧めます。その他の日常生活全般に関する問題には、実際的なアドバイスをしています。読者の皆さんはこの本を読んで、意外な感じや革新的な印象を受けるかもしれませんが、この本の考えや勧めを自分の経験と照らし合わせたり取り入れてみると、当たり前なこととわかるでしょう。もちろんこれを、信用したり、信じたり、信頼する必要はありません。 現代の生き方や教育、セラピーはまず自信をつくることを目標としていますが、はたして、私たちは成功するために自信をつくるのでしょうか?これは逆です。自信は何かをする前からあったものではなく、仕事や他のことで成功した後で持つ感情です。ご自分の生き方に導入したときに、それが常識だとわかるでしょう。人は皆、迷いと努力でスタートし、成功した後で自信を手にするのです。「感情を操作する」ビジネスはどれも、良く生きるために、なすべきことをする努力に向わなくていいように、とうたっています。

感情中心の生き方は危険です。

いつも幸せで心配のない人生を求めても手に入りません。感情にばかりに目を向けていると惨めな人生になります。羨むほど満足な生き方をしている人を思い出してください。一日中、自分の感情を反鋸しているでしょうか。最も惨めな人はどんな人か知っていますか。自分の感情について長い時間くどくどと話す人ではありませんか。感情中心に生きる難点は、「感情のコントロールを得意とする人はいない」ことです。自分で感情を直接つくり出したり、他の人の感情を変えさせることは、誰にもできません。どうすることもできない感情で自分の人生を築こうとしたり、感情を中心に置いた人生にしようとするのは、まるでジェットコースターに乗っている状態と同じです。ジェットコースターから降りるための簡単なアドバイスは、「起きてきた感情(または手に負えない事実一は受け入れ、認め、目の前のなすべきことをする」です。といっても、アドバイス通りにするのは難しいかもしれません。

 「こんなに寒い朝は起きたくない。でも九時までには出社しなければ・・・・・。しかたがない、起きよう」といって起きるのは簡単ではありません。でも、そうすることが自分の人生を生かす方法なのです。もし、感情に支配され、布団のぬくもりから抜け出さなければ問題が生じるでしょう。布団に寝たまま、起きたくなるよう自分を仕向けるのは、不必要なフラストレーションを招き、実際、起床時間が遅れることになります。「めんどうなく起きられるようになるべきだ」

「私はなぜ他の人と違うのだろう」

「今日という日に向かって積極的な態度を取りさえすれば、起きることはたやすいはずだ」

「まだ、今日の心構えができていないんだ」

「昨晩もっと早く寝ていれば、こんなに疲れた感じはなかったのに、・・・・」

「親がよく眠れるようなしつけをしてくれなかった」

などと言っているうちは布団の中です。感情が現実の情報をもたらすのは確かですが、「すること」自体には直接影響しません。専門家と呼ばれる多くの人たちが、行動を起こしやすくするために、心を整えるたくさんのステップが必要であると提言しています。そして、真の自分を見つけ、感情を抑えるために自尊心や自信をつくり出す力を身につけるようにと唱え、過去を乗り越える権利を獲得できるとか、洞察によって何かができるようになると確約します。しかし、このような心の準備はすべて必要ではなく、ましてやできないことです。かえって実際のなすべきことをする妨げとなります。

心の準備なしでただやればいいのに、必要なことをすぐにするよりも、文句を言ったり、問題を探ったり、言い逃れをするほうがやりやすい点に落とし穴があるのです。心の準備をするかわりに、事実が送ってくるなすべきことに向かって努力をする人生にしていきましょう。言い換えれば、目的ある行動に重点を置き、感情はそのままにしておけばいいのです。なすべきことをするのがうまくなったら、感情が原因で引き起こされる問題はほとんどなくなるでしょう。そして、手に負えないほど感情が高ぶっているときでも、建設的な活動をしていれば感情とのバランスは取れていきます。すべての人生を感情によって終えることはありません。

 最初は、目的ある行動中心の生き方に向かうのは難しいかもしれません。心理学やメンタルヘルスの専門家、あるいはテレビのバラエティー番組やドラマを年中見ている人には、特に難しいかもしれません。なぜなら、「自分や感情に焦点を向け、深く隠れた動機を掘り起こそうとしない人は、人生の好機を逃す」という間違った人生観を身につけてきたからです。

まず動く

「なんであんなことをしたんだろう」とあれこれ考えなくてもいい

 ここまでで、コントロールできる行動コントロールできない感情を明確に区別してきました。自分が直接コントロールできないことに責任が持てないのはもっともなことです。言い換えれば、感情の領域では善し悪しのモラルは意味がありません。怠惰、怒り、憎しみ、性欲、嫌気など、どんな感情を持ったとしてもあなたは悪い人ではありません。

 感情は人間に起きる自然現象であって、風や、フロントガラスについた虫、晴天、老化、美しい景色と同じです。自分ではどうすることもできないことにどう責任が取れるでしょうか。寛大に聞こえるかもしれませんが、どんな感情にも責任はありません。

ところが、自分のすることにはすべて責任があります。責任のない感情と責任ある行動を認めると、人生のバランスが取れます。どんな行いにも道義上の責任があります。性的行為や仕事上の習慣にももちろん責任があります。歯を磨くことや椅子に座る、肩を掻く、隣の人にあいさつする、ゴミを捨てる、といったような事柄にも責任があるのです。どんな感情があってもすべての行動はコントロールできますから、善し悪しのモラルがあります。たとえば、「腹が立ったのであいつを殴った」と言うのは、責任がない感情(この場合は怒り)と責任を取らなければならない行動(この場合は殴ること)を分けて説明しなければならないはずです。感情は行動の言い訳や説明に使うものではありません。億劫に感じてもいいのです。でも、ベッドから起きる必要があるなら起きます。焦るのは悪いことではありません。でも、制限速度を破ることは法規上の問題があります。

 読者の皆さんは日頃、人は湧き起こったある感情が理由でその行動を取る、という間違った説を聞かされてきていませんか。この点をはっきりさせましょう。実は、自分がすることをなぜするのか誰もわかりません。ですが、誰もが自分自身の行動を説明できない(他人の行動はさらにできない)のに、毎日誰かに説明するふりをしています。「なぜやったの?」と問いつめる人に満足させる答えを子供の頃に学んだからです。相手が満足する答えを出すと、それ以上は動機について聞かれません。行動の動機や説明について話すのは、他の人の(ときには自分自身の)好奇心を満足させるため以外の何ものでもありません。

 たとえば、酒を飲み過ぎる人が、自分はアルコール中毒だからとか飲酒癖の性格だとか言っても何の説明にもなりません。アル中というレッテルは、アルコールをやたらに飲みすぎる人の別な呼び名です。同じように繰り返し酒を飲む行動の説明として、飲酒癖の性格というだけです。

 メンタルヘルス関連の専門家は、人がなぜそうするかの理由をあたかも知っているかのような話術に長けています。彼らは、本当は知らないことも知っているように思わせるために専門用語や印象的な言葉を使います。行動の原因を知っていると信じ込ませるのは、患者を安心させ、気持ちを落ち着かせることになるのかもしれません。

 しかし、知っている人などいません。人間は複雑な存在です。通常、自分が納得したことをしているだけなのです。「人はなぜそうするか」を説明するために、数限りない論説があります。たとえば、個性についての論説だけをとっても、どれほど多くの心理学説が行動の正当化のためにあるでしょうか。優れている理論が出ると、ほとんどのセラピストが取り上げます。一方、長年にわたって支持を得たフロイトのサイコダイナミックス理論は、今日では悪評が高まっています。

 心理学の世界にも一時的な流行りすたりがあります。私は読者の皆さんに、どの理論も信じないよう勧めます。あまりに限界があるからです。もちろん、どんなものにも価値があるという理論もまた信じるべきではありません。しっかりとした現実の場に戻りましょう。あなたは、今までに自分の取った行動に満足のいく説明ができなかった経験があったかもしれません。「あんなことするなんて私らしくない。なぜあんなことをしたんだろう」と行動をしてしまった後で振り返り、行動した理由を探します。そして、「ああそうか、そういう理由だったのか」と納得したりします。解釈したり、理由づけをするのは、他人や自分白身から「なぜ?」の質問をくい止めるための創作です。

 人は、自分の取った行動が正しくても間違っていても、自分の行いを正当化しようとし続けます。そのつど、他の人からの質問がなくなるような答えを見つけ出さねばなりません。ですが、入念な説明に時間をかけるのではなく、自分自身の行動の動機づけを十分に理解していなくても、なすべきことをするのにより多くの時間を使いましょう。電話をかけるだけのことに躊躇し、必要な電話をかけないですむ理由を考えて時間を費やしている人がなんて多いことでしょう。そういう人は、過剰に解釈したり、プランを建て過ぎたり、評価し過ぎたりして、自分を動かせなくしています。

 人生における自由とコントロールは、自分の行動にしかありません。感情で行動を引き起こすという考えは、「行動を変える前にまず感情をどうにかして直すか整えるべきなのだ」という危険な信仰を持たせてしまうことになります。感情は「矯正される」必要はないし、矯正の仕方など話もわからないのです。理論をもとにした狭い人生は、あなたを自然に振る舞う自由から引き離し、制限しなくていいことまで制限させることになります。感情中心の自己分析に頼っては、人生を不必要に脱線させられるかもしれません。

待つ 苦痛に対処する二つ目のアドバイスは、「待つ」ことです。「待つ」ことは、行動で気をそらすよりも難しいかもしれませんが、やはり役立ちます。感情は刺激しないかぎり、時間とともに薄らいでいきます。あなたは、感情がいつまでも同じ強さで続かないことを体験しているでしょう。愛する人を亡くしたときの激しい悲しみは鈍い痛みに変わり、その人を思い出すとき以外は忘れてしまいます。過去の過ちに対する恥ずかしさや無念さは薄らぎ、年ごとに消えていきます。パニックに襲われたときの強烈な不安も時の経過ととも衰え、次第に薄れていくものです。

 行動的な生き方は、不快な感情を自然に減少させるのを助けます。不快な感情に繰り返し刺激を与える行動をし続けると、不必要な悩みを抱えます。古いアルバムを探し、昔のラブレターを読み返しては怒りや自暴自棄の感情をつくり出している人は、自分に役立たない感情を浮上させるやり方を身につけているのです。感情をよみがえらせるような刺激を与えなければ、感情は時間の流れと共に薄らいでいきます。

 残念なことに、喜びにも同じ法則が当てはまります。喜びや他の嬉しい感情もまた、何かで刺激をしないかぎり時間の流れとともに消えていきます。誰も激しい喜びを維持することはできません。

 不快な感情が過ぎるのを待つあいだにも、建設的に行動することがベストです。皿洗いをしているうちに一時問は経過し、感情は薄らぎ、そのうち、感情は静かになります。感情が静まらないとしても、皿はきれいになり、ガレージが整頓され、浴槽がピカピカになり、車のオイルがきれいになります。さらに、大きなチェリーパイの一切れ分のカロリーを消化するダイエットにもなります。

「建設的な生き方」のキーポイントは次の三つです。

1 事実を受け入れる

 まず、感情を受け入れます。感情も事実のひとつですが、時に問題を引き起こし、受け入れが難しいものです。受け入れるとは、好きになることでも、辛抱強く座って状況について何も手出しをしないことでもありません。「事実を受け入れる」とは、あなたが生きている今の現状を知ることです「こうであったら」とか、「こうでなかったらよかったのに」などどくどくと話してはいけません。「本当はこうであるべきだ」と望むことに焦点を当ててはいけません。物事はただ今の状態であるだけです。では、物事のあるがままに対して、なすべきことは何ですか。

2 目標を知る

 目的や目標はさまざまな時間の枠の中で生じます。短期目的や長期目標があります。それでいいのですが、今、鼻の先で起きている、緊急に必要なことをしないで、大それたはるか遠い将来の計画づくりに時間をかけ過ぎないように気をつけてください。今日できることを真剣に考え(それが直ちになすべきことなら、この本を閉じることでも)、目標が短期であっても長期であっても、それに近づく一歩を歩むことです。

 目的や目標は、人生の方向づけに役立つ手段になります。私は飛行機恐怖症ですが、飛行機に乗らなければならないときは乗る目的を思い出します。以前と同じことをまた書くといった退屈な仕事は、気が散漫になるので、言葉をつくり出すという自分の目標を思い出します。目標は、私たちを現実の人生に引き戻してくれます。

3 なすべきことをする

 「なすべきことをする」は、計画を実行に移すためのアドバイスです。実際にやってみて、自分の目的や目標が建設的な行動に向かないようなら、目標を再確認する必要があります。多分、決めた目標が自分の意志で直接コントロールできないのかもしれません。

 「いつも幸せでいる」とか、「不安なしの生活を送る」という目標を設定しても達成不可能です(聞こえはよくても望めません一。また、「今年は体重を減らす」「もっと好ましい人間になる」という漠然とした目標ではなく、具体的でコントロールできる行動こそ有効な目標となります。具体的にコントロールしやすくするために、「毎日四十五分間トレーニングする」「毎日一時間自転車に乗る」「老人ホームで週末二、三時間ボランティアをする」「入院している誰かに週に一度手紙を書く」などとします。実際に行動できる事柄が、目標にふさわしいでしょう。賢い目標は、適切な行動の機会と一貫した人生ゲームの勝利をもたらします。行動によって、はじめて自分を取り巻く実際の世界から答えが送られるのであって、夢や願い、考えだけでは答えは返ってきません。これら「三つの鍵」を基本にした「建設的な生き方」は、最上とはいえなくとも、人生の再構築を日指した教育法です。それほど神経質にならなくても構いません。過去に経験した精神的苦痛に対する特別な洞察も必要ありません。事実、なぜその行動をするかを本当に理解する人はいないのです。過去や現在の行動を理解するための解釈というものは存在しません。今現在、自分が誰であるかを知る決定的な分析も存在しません。自分を知ろうと苦心して、人生を停めることはありません。今ここに在る自分がしていることを続けていくのが人生です。では次にすべきことは?

 私の興味は神経質の症状を取り除くことではなく、新たな人格を形成することです。さらに、人が事実をあるがまま受け入れ、事実を変えるために目的のある行動をしていく手助けとなることに大いなる関心があります。「建設的な生き方」は、継ぎ目のない人生と、柔軟で意義深く、目標を成就できる生き方をもたらします。あなたの自己成長度をはかる六つのステップ

 成長の第一段階

 最も哀れな人は、何かに悩んでいて、部屋が散らかっているのに気づかない人です。なぜ哀れかというと、部屋が汚れていることに気づかないからです。誰でも時には惨めな気持ちになります。惨めな状態だから、人生の梯子の一番下の段に置かれるのではありません。なすべきことに気づかず、なすべきことをしないと、自然と限られた狭い生き方になり、人生を失うことにもなります。

 成長の第二段階

人生の梯子の次のステップにいる人。何かに悩んでいて、部屋は散らかっています。部屋が散らかっていることに気づき、汚い部屋に住まなければならないことで一層惨めになっています。この人は部屋を片づけたり掃除したりなどせず、ただ惨めさの中でのたうちまわっています。それでもこの人は二段目にいます。少なくとも散乱している部屋に気づいているからです。多くの人がこの第二段階にいます。今の状況に気づき、それに満足していないにもかかわらず、変えるための努力をしない人たちです。

成長の第三段階

 このステップにいる人は、何かに悩んでいて、部屋は散らかっています。その散らかりように気づき、掃除を始めます。なぜ掃除をしているかと尋ねると、部屋の掃除をすることで自分の惨めさから逃れることができると答えます。彼は、不愉快な感情から逃れるために部屋掃除をしていることになります。部屋はきれいになり、結果は上々でしょう。しかし、この段階の人はまだ感情中心な生き方です。不快な感情を取り除き、望ましい感情をつくり出して、それを維持していく人生を築こうとしています。感情は自分の意志で直接コントロールできませんから、この人の努力は、長期的にみて失敗する運命にあります。一時的な喜びはあるかもしれませんが、また同じように沈むときもあるでしょう。感情を操作しようとする試みは、人生を不満足な結果に終わらせます。

 成長の第四段階

 この段階にいる人は、何かに悩んでいて、部屋は散らかっています。汚いのに気づき掃除をします。なぜ掃除をするのか問われれば、部屋が汚いからと答えるでしょう。散らかっている部屋は掃除をするに値します。この段階と前までの段階の違いは非常に重要です。この段階の人は、もはや感情中心ではありません。行動中心、目的中心でより現実的です。この段階の人にとって危険なのは、非現実的な自信を持ちやすいことです。自分の力で精一杯部屋を掃除していると信じているかもしれません。「汝にまさる善行はなし」の態度をひけらかすかもしれません。私は困難なときも、多くのことをする(部屋掃除をきちんとしたり、恐怖心があっても飛行機に乗れる、戦いに楽勝する、いい暮らしができるなど)力のある人間だ」というかもしれません。

 成長の第五段階

 この段階の人は、何かに悩んでいて、部屋は散らかっています。部屋の散乱ぶりに気づき、掃除します。なぜ掃除をするか尋ねると、散らかっているからだと答えます。さらに、母親が掃除機の使い方を教えてくれた。掃除機が使えるよう電力会社で働く人が電気を送り続けてくれる。ほうきやモップ、洗剤などを発明した人がいると付け加えるでしょう。自分は何でも一人でできると自分を英雄視せず、今ここにいる自分は多くの人たちや物で構成された「掃除チーム」の一員にすぎないことを知っています。さらに、掃除する際に使う体力は、他人によって栽培され、準備された食べ物から生まれたのだとつけ加えるかもしれません。

 この段階の人は前の段階のよりはるかに進んでいます。より優れた、社会的見方をするからではなく、より現実的な見方をするからです。掃除機は電気なしでは動かず、読み方を教えてくれた人の努力なしでは操作方法が書かれている説明書を理解することはできません。両親がいなければ部屋を掃除する身体もありません。自力で目標に達するとか、独立独歩を考えるのはバカげており、非現実的で間違っています。

 成長の第六段階

 このレベルの人でも、何かに悩んでいて、部屋は汚れています。汚いことに気づき掃除をします。部屋掃除ができるのは他の人のおかげであると認めます。ここで、(英語、日本語、その他との言語でも一説明しにくい認識の違いがあります。この段階の人は部屋掃除チームの一員であると言い、しかし、自分は事実の仕事をする事実の手段としてあると見ます。厳密に言えばこの部屋は自分のものでなく、事実のものです。事実は事実の部屋掃除に取りかかります。掃除が続く……。

 最後の第五と第六段階の微妙な違いがわからなくても、たいしたことではありません。私自身、より明確にする技術に欠けているようです。もっと上の段階があるかもしれませんが、読者の皆さんが理解できる言葉で表現する能力を私は持ち合わせていません。この段階まで自分を発展させ、残りの人生をその上の状態で過ごそうとしても、それは不可能です。誰もがこの梯子を常に昇ったり降りたりするのです。禅僧、司祭、精神分析家、学者、その他すべての人が、時には人生の梯子の一番下の段に座っています。思い出してください。人は常に変化しているのです。特別な能力を持っている人がいるのではありません。たとえば、セラピストと患者の大きな(あるいは単なる)違いは、セラピストはどんな約束の時も定刻に現れることです。好きでも嫌いでも、セラピストは患者のためにオフィスに出勤します。患者は、人によっては、気分が向かないときは相談日をキャンセルしたり、あるいは身勝手に出てきません。セラピストだって、自分の仕事を常時、エンジョイしているとか、人生をいつも楽しんでいるわけではありません。成熟した人とは、気分が良かろうが悪かろうが、他人(そして自分自身)のためにそこに存在するのを認めることです。

置かれている環境を具体的に見つめてみる

感情は事実全体のほんの一部です。人生で一番大切な事実として教えられたかもしれませんが、そうではありません。感情を疎外したり、逆に非常に優れたものとして焦点を当てるのは、不必要な問題を引き起こすことになります。言うまでもなく、読者の皆さんは私の言葉を確証する入生経験をお持ちでしょう。感情を含む広い事実に、なぜ注意を払う必要があるのでしょうか。ここに理由を五つあげます。

1、事実は本質的におもしろい

 近所の家や庭を細い部分まで見ないで書けますか。では、外に出て事実を確かめてごらんなさい。記憶していたことよりもっと細かい部分や形、色を発見するはずです。自分の内面ばかりに注目している人は、この、変化に富んだ色彩豊かな事実を見逃しています。退屈で感情の変化が少ないときは、周りの環境に気づいていない場合です。事実は良くも悪くもあなたを刺激で満たしたいと待っています。事実にそのチャンスを与えなさい。そうすれば事実の何かがあなたの心をつかむでしょう。

2、事実はあなたがなすべきことについての情報を送っている

 私は十代のころ、よくサンタモニカの海岸にボディーサフィンをしに出かけました。波に向ける注意を怠ると、波に倒されました。さらに、事実は次の波を送り続け、私は常に波に気をつける責任がありました。気をつけていないと、波は私の注意をなんとしても引きつける機会を示します。あなたは、踏切を渡るときに電車が来ないかどうか調べるでしょう。今掃除をする必要があるか、また、どこから始めたらいいのかを知るには、家の内外、車庫を丹念に調べるでしょう。事実に参列していないと、重要な目標や絶好の機会を逃してしまいしらます。感情もまた、なすべきことを知らせてくれます。その報せを無視してはいけません。しかし、感情が知らせていることは、事実が収集した以外のものも含まれていることに気をつけてください。

3、事実は気づくに値する

 あなたが事実に気づいても気づかなくても、事実は自分を支え続けています。事実を捉えると、細かな事柄にも気づきます。食べ物を与えられた、仕事をさせてもらった、転勤するとき手伝ってもらった、精神面、社会性を育てられた、教育を受けた、人生のさまざまな場面で支援された、などです。もし長年、セラピストのもとに通い、他の人から受けた被害を探しているなら、あなたは、過去から現在に至る圧倒的な量の支援を無視することに自分の十分なエネルギーを使わなければならなかったはずです。周囲をよく見てごらんなさい。

4、事実唯真(事実は真実)

 この言葉は森田療法の創始者・森田正馬の言葉です。森田の主眼は、科学が事実を信頼するように、人は事実を頼ることができるという点にあります。思想や解釈、好み、理想、感情はそのときどきに変わります。それらは、その時点では本物であり真実です。どんなに優れた思想や好みが生じても、一枚の真っ白な紙に何も書かなければ、学期末テストは無記入であるということははっきりしています。年々古くなってきていても自分の車は頼りになるし、いつか死ぬという真実は信頼することができます。それは疑う余地のないことです。

 私がどう言おうが、牧師の尊い説教を聞こうが、恋人が耳元で騒こうが、競争相手が自慢しようが、自分の目を事実(この言葉も事実の一つであり、事実全体を含むことはできないのですが)に置きなさい。実状に広く心を開いていれば、真実の情報を捉えることができます。

5、自分も事実

 話を聞く自分も環境の一部です。他の人や環境からの事実の音があり、それを聞く自分があって話が生まれます。見るものは事実から送られた風景です。知っていることはすべて知らない所から湧いてきて、心に本物の考えとして現れます。自分が事実であるという説明に納得がいくか、信じられるかどうかは重要ではありません。毎日の過ごし方に比べれば取るに足らないことです。しかし、それでも自分は事実の一つであり、事実は自分に組み込まれているのです。このような見方には二つの意味が含まれます。一つは、「周りの環境」に対してすることは自分自身にしていることになります。もう一つは、自分という「環境」に気づき、そこから学ぼうとすれば、自分自身についても多くを学ぶということになります。たとえば、精神分析の心の探索は、自分が何者であるかというたった一つの小さな面だけを学ぶ狭量な方法です。物理学や文化人類学、歴史、宗教もまた自分自身を学ぶためのさまざまな権威のある方法の一つでしかありません。ですから、自分白身の多くを見失わないように広い事実に注意を払いたいものです。最期に来る死の波まで乗り越えて人生でどうしても避けられないことに「死」があります。いつの日か、「死」という大きな波が誰にでもやってきます。事実の波は、「死」と書かれたプラカードを運んでくるのではありません。それは対向車や動脈弁破裂、バクテリアに冒されるなどの形でやってくるのです。どのような形で死がやってくるとしても、死の準備をする必要があるでしょう。それは平穏に死を迎えるとか、喜んで死に直面するためではありません。まさに死の瞬間にどう感じても一恐ろしい、心配、ほっとする、希望に満ちて、絶望、穏やかになど一、自分の感情を受け入れ、事実が送っているなすべきことをします。しかし、それにはかなりの訓練が必要でしょう。森田正馬は死を前にして、医学生たちに自分に起きている感情と感覚を説明しました。自分の死をも教材としたのです。「恐ろしくて泣き叫んでこの世に生まれてきたのだから、同じように死んでいくかもしれない」とも書いています。死に「適切な」「望ましい」方法などないということです。

森田療法の医師であり、著名な著述家でもある岩井寛氏は、腎臓ガンが目に転移しても入院先のベッドで原稿を書き続けました。その後、病状が悪化し、助手に本の原稿を書き取らせ、自分の言葉をテープに吹き込ませました。死の朝にも、死後に出版される予定の本を執筆し続けていました。身体は病気にむしばまれ、目が見えなくなり、聴覚にも障害が出て、ベッド脇には死の影が漂い始めても、目的ある行動を続けたのです。誰も健康を損ねないようにすることはできませんし、何かを失ったり、うまくいかないときがあります。それでも行動を続けることはできます。

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